好き、嫌いは否めない

日記に嘘を混ぜ込んで、ショートショートを書いています。

バスクチーズケーキと初めての日(短編小説)

右耳の奥に水が入ったのか、詰まった様な感覚がある。違和感を覚えたのはいつからだろうか。綿棒で取ろうとしても、右耳を下にして水が抜けるのを待っても、一向に水の抜ける様子はない。それがずっと続いている。首を振るとガサゴソと音がした。

 

「中耳炎か何かなんじゃない?医者に診てもらったらどうかしら。」彼女はまるで他人事の様に(もちろん他人なのだが)そう言って、コーヒーカップをソーサーに音を立てない様に慎重に置き、メニューを見ながらもう一品デザートを頼もうか思考を巡らせている様だった。

「あなたは何でも気にしすぎるのよ。気にしすぎるのは何事にも良い方向ヘは転ばない。だったら迷わず医者に診て貰えばいい。そうでなければそういう物だと思って生活すればいい。」彼女はそう言うとウエイターを呼びとめ、バスクチーズケーキを注文した。

そういう物として、無意識化に置くべき、彼女の言葉は彼にはそう聞こえた。

程なく注文したバスクチーズケーキがテーブルに運ばれ、彼女はウエイターにありがとう、と言った。

「このケーキ美味しいわよ、少し食べる?ちょっとだけ頼みすぎたみたい。」

そういうと僕の返答も待たずに彼女は、僕の空いた皿に取り分けたケーキを乗せた。

甘いものをあまり口にしないのだが一口食べると表面の焼き目がほろ苦く、香ばしい。

「美味しい?」と彼女は言った。

「美味しい、とても。」僕は言った。

「でも」「でも?」

「耳の奥には水が入っている。」と僕は言った。

「耳の奥には水が入っている。けれど、とても美味しい。そうね。」彼女は笑った。

 

彼女とはこれが3回目のデートになる。今回は彼女のエスコートで洒落たレストランでの食事だった。僕はこの人と恋人になれたらいい、そう願っている。レストランを後にした時、「ねぇ、飲み直さない?うちに来る?」と彼女は言った。

「今日はやめておくよ。明日早いんだ。それに耳の奥には水が入っているからね。」と僕は言った。

 

僕は、彼女の部屋で一つになる事を望んでいた。しかし実際にはまだ早すぎる様な気がしていた。体目当てと思われたくないし、彼女を大切に思っている。恋人にしたい、そう強く願っている。

 

「明日の仕事に支障が出ない時間まででいいのよ。もう少しあなたと話したいの。」

彼女はそう言うと近くに止まっているタクシーまで僕の手を引き、運転手にアパートの住所を告げ、押し切られる様に彼女の部屋に向かった。タクシーの後部座席で彼女は何も言わず僕の右手に彼女の左手をそっと重ねてきた。思っていたよりもその手は温かく熱を持ち、少し湿り気を感じさせた。僕は、激しく動揺し、脈が速くなるのが自分でもわかったが冷静を装い、バイパス高架下から覗く駅前の夜景を眺めていた。しかし実際は何も見てはいなかった。彼女とセックスがしたい。ただ、それだけだった。

 

程なくタクシーが止まり、料金を出す出さないの悶着があったが(実際には彼女が全て払った)彼女のアパートの前についた。

 

2階建ての2階の真ん中、205号室。

彼女はバッグから鍵を取り出し、ガシャリと鍵を開け「散らかってるけど、ごめんね。」と言って僕を部屋にあげた。

 

彼女は、脱いで不揃いだった彼女の靴と僕の靴を二足、隣同士に並べて揃えた。

 

彼女の部屋は入ってすぐに小さなキッチンがあり、向かいに浴室とトイレ、奥がワンルームとなっていてテレビとテーブルがあり、ベッドがあった。小綺麗にはしているがどこか雑然としていて、男友達の部屋とさして変わらない部屋だった。ピンク色の遮光カーテンが唯一女性の部屋を感じさせる位だった。

 

「ビールでいいかな?」彼女は言った。

「ごめん、何かアルコールの入っていないものあるかな?」と僕は言った。

それから缶ビールとコーラで乾杯した。

ポテトチップをあけ、録画していたバラエティを見ながら、最近の彼女の職場での出来事(それは実にどうでもいい事だった)を缶ビールを空けるまで彼女は喋り続け僕はそれを聞き続けた。ひとしきり喋り終えると彼女はおもむろに「シャワーに入ってもいいかな。好きな番組見てていいよ。」と言った。

 

彼女の録画してある番組は主にドラマとバラエティが殆どで、さして興味を持てる番組はなかったが、一番上の番組を選び、眺めるでもなく眺めていた。

 

これから僕たちはセックスをするのだろうか。僕は硬くなったペニスを落ち着かせるようにテレビを眺めていたが何も情報が入ってこなかった。ただ演者が何かを言い、違う演者が何かを突っ込み、その一連の流れを見ている観客の笑い声が差し込まれている様な笑い声を発した。昔見たチャップリンの映画の様に、それはいつまでも繰り返された。

 

彼女はシャワーから上がるとピンクのパジャマに着替え、ドライヤーで髪を乾かしている。

「あなたもシャワー入れば?」さりげなく、しかしごく自然に彼女はそう言った。

 

そういえば右耳の奥の水が気にならない。

 

「あなたは何でも気にしすぎるのよ。気にしすぎるのは何事にも良い方向ヘは転ばない。だったら迷わず医者に診て貰えばいい。そうでなければそういう物だと思って生活すればいい。」彼女はそう言った。

 

僕は財布の中に潜めてた避妊具を取り出しなるようになれ、と心を決め浴室に向かった。

右耳に水が入らぬよう慎重にシャワーを浴びなければいけない。たとえ耳に水が入ったとしても、そう言うものだと思って、彼女を強く抱くのだ。右耳の奥がガサゴソと、音がなろうが、なるまいが、僕は彼女が好きで、彼女も僕を好きだと思う。多分。